過去のアーセナルに学ぶリーグ連覇の難しさ
アーセナルがリーグの連覇に最後に成功したのは1935年のことだ。アーセナルに限らず、プレミアリーグでは、リーグ王者が翌シーズンにそのトロフィーをライバルへ明け渡すケースが多い。
イングランドのトップリーグで連覇を成し遂げるのは、とてつもなく難しい。チームの実力だけでなく、そのほかの多くの要因が自分たち側に有利な方向に転ぶ必要があるからだ。
かなり長い代表選期間中に、不安をわざわざ刺激するというわけではないが、過去にタイトル防衛が失敗した主な原因を振り返ってみる意味はあるだろう。これらの要因のうち、今季のアーセナルにも当てはまりそうなテーマがいくつかある。
2004-05
アーセナルはこのシーズン序盤、絶好調だった。プレミアリーグ開幕から5連勝を飾り、その後ホームでボルトンと引き分けたものの、そこから再び3連勝。最初の9試合で8勝1分という素晴らしい成績を残し、シーズンをまたいだリーグ戦無敗記録ではイングランド最長を更新した。
しかし、その無敗記録がオールド・トラッフォードで極めて物議を醸す形で止まり、これが大きな心理的打撃になった。その後のリーグ5試合で獲得した勝ち点はわずか6に留まり、その間に、ジョゼ・モウリーニョ率いるチェルシーは急速に勢いを増していった。
チームの全体的な強度や、スカッドの経験値にも前シーズンと比べて少し低下があったように思う。エドゥとジウベルト・シウバの負傷によって、セスク・ファブレガスの才能が発掘されたが、しかし一方で、ヴィルトール、カヌ、パーラーといった経験豊富な控え選手は、フラミニ、レジェス、ファン・ペルシーといった若い選手に入れ替わっていった。
チャンピオンズリーグでローゼンボリと1-1で引き分けた後には、選手間で衝突があったとの報道もあった。また、スペイン代表監督ルイス・アラゴネスがホセ・アントニオ・レジェスの前でティエリ・アンリに対する人種差別的発言を行うという、非常に残念な出来事も起きた。
レーマンは調子を落とし、正GKの座をアルムニアに奪われた。そして、パトリック・ヴィエラが夏にレアル・マドリーへの移籍を巡ってチームを少し不安定にしていたが、結局この時点でアーセナルは放出に踏み切るべきだったことが、シーズンが進むにつれて明らかになっていった。キャプテンのパフォーマンスレベルは明らかに低下していた。
また、アシュリー・コールを巡る不愉快な騒動も始まった。彼はバイエルン・ミュンヘンとのチャンピオンズリーグ戦を控えた時期に、規則に反する形でチェルシーと接触していた。
アーセナルのチームとしてのピークはこのシーズン少しずつ過ぎていき、その一方でモウリーニョのチェルシーが上昇曲線を描きそれを越えていく、というシーズンだった。
2002-03
2004-05シーズンと同様、このシーズンのアーセナルも国際大会があった夏を経て新シーズンを迎えていた。また、2001年12月から続く長いリーグ戦無敗記録も継続していた。
最初のリーグ9試合で勝ち点23を獲得し、これもまた素晴らしいスタートだった。特に10月には、前十字靭帯損傷からロベール・ピレスが復帰したこともあり、チームが完全に波に乗っているという印象があった。
しかし、その後の出来事は2004年に起きる出来事の予告編のような展開となった。10月、グディソンパークでウェイン・ルーニーに試合終盤に決勝点を許し、30試合続いていた無敗記録がストップした。そしてこれが、大きな精神的な打撃となった。
その1週間後にはホームでブラックバーンに敗れ、さらにその前後にはチャンピオンズリーグでボルシア・ドルトムント、オセールにも敗北。結果として、チームは4連敗を喫した。
それでも、3月上旬の時点でアーセナルはまだ首位に立ち、消化試合数が1少ないマンチェスター・ユナイテッドに勝ち点8の差をつけていた。
だが、アーセン・ベンゲルは春にチームが慢心してしまったとのちに認めた。そしてちょうどこの時期、マンチェスター・ユナイテッドの好調が長く続いた。
このシーズンは、非常にタイミングが悪かった。アーセナルの勢いが落ちたまさにその瞬間に、ユナイテッドが勢いを盛り返したからだ。さらに3月、バレンシアに敗れてチャンピオンズリーグから敗退したことも、シーズン終盤のチームに悪影響があった。
1998-99
2002-03、2004-05とは異なり、このシーズンはアーセナルは終盤調子を落としたわけではなく、むしろその逆だった。
このシーズンも夏にはW杯があり、マルク・オーフェルマルス、デニス・ベルカンプ、エマニュエル・プティ、パトリック・ヴィエラ、デイビッド・シーマン、トニー・アダムスといった選手たちかなり終盤まで勝ち残っていた。
ただし、このシーズンの不調の最も大きな要因は、移籍市場市場での失敗だった。
クラブは1998年夏、35歳になっていたストライカー、イアン・ライトの放出を行った。既に1997-98シーズン後半に、10代の逸材ニコラ・アネルカが存在感を示していたからである。しかし、アーセナルはライトの代役となる攻撃陣の補強に失敗した。
その夏の大半を、クラブはパトリック・クライファートの獲得交渉に費やした。彼はACミランで難しい1年を過ごしていた。だが当時のアーセナルには、どの選手にも週給3万ポンド以上は支払わないという給与体系があり、クライファートが求めていたのは週給4万ポンドだった。
アーセナルは結局この方針を曲げず、結果的にクライファートはバルセロナへ移籍した。
アーセナルはティエリ・アンリ獲得の可能性も既にこの時点で探っていた。そして、ロナルド・デ・ブールも検討したが、彼の要求給与額にも二の足を踏んだ。
結局、その夏にアーセナルが獲得したのは控え右サイドバックのネルソン・ヴィヴァスのみで、9月にはユングベリを獲得し、彼は後に素晴らしい補強だったことが証明されるが、イングランドの環境に適応するには時間を要した。
ベルカンプはハムストリングの負傷からの復帰した直後にワールドカップを戦ったこともあり、シーズン序盤は本調子ではなく、シーズン序盤の時点で一流のFW獲得に失敗した影響は明らかだった。
第2節、第3節、第4節はいずれも0-0の引き分けで、第5節のレスター戦でも、スティーブン・ヒューズが試合終了間際に決めたロングシュートからの同点弾で引き分けに持ち込むのが精いっぱいだった。
チームが得点力に問題を抱えていたのは明らかだった。
アーセナルは1月、この問題にインテルからヌワンコ・カヌを獲得することで対応した。また、カバ・ディアワラも獲得したが、彼はなぜか異様なまでにゴールポストやクロスバーにシュートを当て続け、1点も決めないまま1999年夏にクラブを去った。
とはいえ、それでもアーセナルが連覇を達成できた可能性は十分にあったが最終的に、アーセナルはわずか勝ち点1の差でタイトルを逃した。
王者マンチェスター・ユナイテッドより失点は20少なかったが、得点も21少なかった。
タイトルの獲得に足りていなかった要因が、ここまで明らかで単純であるケースも珍しい。
多くの人は、4月のFAカップ準決勝でマンチェスター・ユナイテッドに喫したあの苦しい敗戦で、歯車が狂った瞬間だったと考えているが、個人的には、私はそうは思わない。
アーセナルはその直後に調子を崩したわけではなく、ヴィラ・パークでウィンブルドンを5-1で破り、さらにミドルズブラを6-1で下している。どちらの試合でもカヌが重要な役割を果たした。
シーズンを通してみれば、勝ち点1の差を生んだのはシーズン序盤の得点不足だった。
もちろん、移籍市場で動きすぎることがタイトルの防衛を妨げる場合もある。
1991年9月、アーセナルはイアン・ライトを獲得したが、驚くべきことに、その後7年間リーグ優勝から遠ざかった。攻撃が1人の選手に集中しすぎるようになったことが、その一因となった可能性もあるかもしれない。
1971年夏には、前年リーグ優勝を果たしたアーセナルはMFのアラン・ボールを獲得した。当時、ボール保持時のプレイは国内最高、と評されていた選手である。
監督のバーティー・ミーは、献身性を基盤としていたチームに、より華やかな要素を加えようとした。しかし、それによってチームのバランスが崩れてしまった。もちろん、それはボール本人の責任というわけではない。
まとめ
連覇が懸かっているかにかかわらず、リーグ優勝というものは本当に難しい。
非常に強力なチームであることは必要な前提条件だが、それに加えて、様々な物事が少しだけ、自らに有利な方に進む必要がある。
例えば、客観的に見れば、アーセナルは最終的にリーグ優勝を果たした昨季よりも、2位に終わった2023-24シーズンの方が、はるかに印象的で、良いパフォーマンスでリーグ戦を戦っていた。
船がほんの少し進路を外れるのに、大きな衝撃は必要ないのだ。リーグ連覇が実現するかに関して言えば、自チームだけではなく、ライバルたちに何が起きるかも非常に重要なのだ。
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