【3-4-3の生みの親】アーセナルレジェンド紹介1 ハーバート・チャップマン

歴史

時代順ということで、第一弾は選手ではないのですが、アーセナルに初めての栄光の時代をもたらし、今のアーセナルの基礎を築いたとされる、ハーバート・チャップマン監督の紹介です!恐らく日本語で読めるものとしては日本一詳しいと思います!

アーセナル監督就任までの経緯

南ヨークシャーの炭鉱夫の息子で、11人兄弟の一人として生まれたハーバートですが、幸運にも頭脳に恵まれており、現シェフィールド大学への入学を勝ち取り、その後サッカー選手としてのキャリアを歩み始めます。

選手としてはぱっとせず、アマチュアとプロの間あたりをさまよいながら、グリムズビー・タウンやスウィンドンといったクラブでプレイをし、最終的にはトッテナムでもプレイして11ゴールを挙げています。トッテナムに移籍した際の移籍金は70£だったそうです。

その後、トッテナム時代に古巣のノーサンプトン・タウンから誰か良い監督候補はいないか、と声を掛けられ、ロンドンでのチームメイトを紹介しようとしたら彼が突然気を変え、『いや、やっぱりお前が監督やれよー』と言い出したため、ノーサンプトンの選手兼監督に就任、という面白い経緯で監督のキャリアを始めます。

そのノーサンプトンを立て直した手腕が評価され、監督としての名声が高まっていったチャップマンは1920年代前半にハダスフィールドの監督として3つのタイトルを獲得すると、英国屈指の名将として認められ、ついにアーセナルに引き抜かれます。

昔からキックアンドラッシュがスタンダードだったイングランドサッカー界において、その戦術はウイングの迷路のような走り込みと、単に放り込むクロスだけではなく、低い弾道のカットバックを用いたりと、先進的な監督だったようです。

チャップマンが応募したといわれる、当時のアーセナルの監督募集の新聞広告。『能力、性格両面において最高の素質を備える者。良いチームを作り上げるのに高額の選手獲得予算を必要とするような紳士はお断り』とあります。100年前からアーセナルはアーセナルだったようですね。笑

アーセナルでの功績

実はこの時代、アーセナルは創立から40年ほど経っていたものの、まだタイトル獲得経験がなく、1部リーグでプレイする中堅クラブでした。(というか、当時は強豪はイングランド北部のチームが多く、ロンドンに強いチームはほとんどいなかった。)

最初の数年こそチャップマンは苦戦するものの、1927年のFA杯決勝にアーセナルを導いたのに続いて(カーディフに敗北)1930年にFA杯初優勝、そして1931年にはアーセナルに初のリーグ優勝をもたらし、黄金時代を築きます。

ちなみに、この年のリーグ127得点という記録は未だにクラブ最多記録です。

翌年の1931/32シーズンこと優勝を逃したものの、32/33シーズンには再びリーグ優勝を達成します。

1934年にハーバート・チャップマンはイングランド北部へのスカウティングと対戦相手視察から帰ったのち、体調を崩し、アーセナルのサードチームの試合を観戦した直後に風邪が悪化、そのまま亡くなったものの、チャップマンが遺したチームはその後3連覇を達成しました。

1934年に当時のW杯チャンピオンであったイタリア代表とイングランド代表の試合に7人ものイングランド代表をアーセナルは送り込んだ(しかも奇遇な事にハイバリーで行われ、3-2でイングランドが勝利)ことからも、その強さがわかります。

チャップマンの先見の明

戦術

数え上げるときりがないですが、チャップマンは100年前とは思えないほどモダンな監督で、戦術的には、3-4-3の生みの親とされています。

当時のフォーメーションは2-3-5が主流でしたが、チャップマンが採用した3-4-3(というか厳密には3-2-2-3)が強すぎてイングランドで大流行、ほとんどのチームが採用したそうです。

このフォーメーションはその見た目からWMとも呼ばれました(前の2-3がWで後ろの3-2がMにみえることから)。チャップマンの発祥は長く世界の主流であり続け、1950年のW杯の時もまだ多くのチームが採用していたらしいです。

当時最強とされていたオーストリア代表もこの3-2-2-3を採用、1950年代に世界を席巻したプスカシュらを擁するマジックマジャールことハンガリー代表もこのフォーメーションの亜種のような形でした。

(世界的に4バックが一般的になるのは4-2-4を採用したブラジル代表が1958W杯で優勝してからです。)

また、前線へのキック&ラッシュとクロスの放り込み込みが主流だった英国において、ウイングにカットインを指示した数少ない監督の一人だったそうです。

アーセナルが放り込みではなくて、ボール保持とドリブルを重視した戦術を採用したらイギリス中から『退屈で運頼みのアーセナル』と批判された、という逸話も残っています。笑

クラブ運営

もちろん戦術的にも非常に有能だったチャップマンですが、恐らく真に革新的だったといえるのはそのクラブ運営手腕でしょう。

フロントの指示のもと試合の指揮を執るだけではなく、ベンゲル監督のようなクラブの全権掌握運営モデルを世界で最初に始めた監督の一人で、自身で選手のスカウティングを行い、より広範なスカウティングネットワークの構築を目指すなど、今のサッカークラブが行っていることはほとんどすべてチャップマンが既に行っているといっても過言ではありません。

クラブの成功によって得た資金を選手獲得につぎ込み、スタジアムの改修も行いましたし、史上初めて1万ポンド超えの移籍金で選手獲得をおこなったり、アーセナル史上初となる海外からの選手獲得もチャップマンが行っています(オランダ人GKジェラルド・キーサー)。

また、当時BチームとCチームまであったアーセナルですが、これらのチームにもファーストチームと同じスタイルでプレイするよう徹底したそうです。

また、チームの老化に懸念を抱いており、フロントに補強を促す手紙も残っています。

また、ジレスピー・ロード駅をアーセナル駅と改名する、という今の時代でも稀有なブランディングと将来へのビジョンを見せつけました。

詳しくはこちらの記事をどうぞ!

ヨーロッパのメソッドや選手を取り入れることをためらわなかった点や、ピッチ外でのクラブの成長に心を砕いた点など、こうしてみるとアーセン・ベンゲル監督と重なる点が非常に多くありますね。

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Posted by gern3137