テリー・ニールの思い出
先日、アーセナルで1960年代にはCBとして活躍したのち、その後1970年代後半~80年代にかけて監督を務めたテリー・ニールさんが亡くなられました。この時期はアーセナル自体が低迷期だったこともあって、クラブに数多くのタイトルをもたらした監督、というわけではありませんが、当時を知る多くのファンにとってはとても印象的な選手、監督であったようです。
Rest in peace, Terry Neill ❤️
— Arsenal (@Arsenal) July 28, 2022
今回はarseblog上にジョン・スパーリングさんが寄稿されていた、テリー・ニール時代のアーセナルを回顧する記事を紹介します。
私の母はそこまで熱心なサッカーファンというわけではなかったが、私が1970年代のアーセナルを応援していた際に在籍していたアイルランドアクセントで話す選手たちのことは大好きだったということが分かった。
当時のチームにはアイルランド共和国出身のフランク・ステイプルトン、リアム・ブレイディやデイビッド・オレアリーがいたし、パット・ジェニングズやパット・ライス、サミー・ネルソンは(英国内の)北アイルランドの出身だった。
そして、当時の監督はベルファスト生まれのテリー・ニールだった。彼には選手時代、20歳にして史上最年少のキャプテンに任命されるという実績もあった。
1998年に私はテリー・ニールをインタビューする機会があり、そのことを母に話した所、彼女はずっとテリーの"素敵な声"について語っていた。
アーセナル関係の人物にインタビューを行うことは初めてだったので、私はかなり緊張していたが、確かに彼はインタビュー中を通してずっと愛想がよく、とてもチャーミングな人物だった。
この時、アーセナルの監督時代よりもテリーの声は更に深くリッチになっているように聞こえた。本人はたばこのせいだと言っていたが。
もし母がこの場に居れば彼の声を聴いて喜んだことだろう。
彼は自身の選手時代やかなり難しい時もあったアーセナルの監督としてのキャリアについてとても正直に話してくれたし、時折詩人のような言葉も駆使して語っていた(リアム・ブレイディの魔法の左足について話すときなどには特に)
肩をすくめ、苦笑いをしながらニールは自身の選手キャリアに関しては"少しタイミングが悪かったね"と話した。
60年代のガナーズの守備を支え続けたテリー・ニールはCBとして、そしてウイングとして両方でプレイしていたが、アーセナルが優勝を逃した例の1968年のリーグカップ決勝にも出場していた。
その翌年以降は病気の影響でレギュラーとして出場することはあまりなくなり、アーセナルのCBのパートナーの座はフランク・マクリントックとピーター・シンプソンのコンビが務め、活躍を始めた。
その後、彼は1970年のインターシティ・フェアーズカップで直前の5試合には出場していたものの、アーセナルがアンデルレヒト相手に伝説的な勝利を収めた決勝(アーセナルはファーストレグで3-1で敗北したが、セカンドレグで3-0で勝利し逆転優勝を収めた)ではメンバーを外れた。
同年彼は28歳にして1970年の夏にはハル・シティの選手兼監督に任命されており、アーセナルがダブルを達成した1970/71シーズンにはそこにはいなかった。
この事をどう受け止めているか?とテリーに尋ねた所、彼は私を見つめ、ゆっくりとこう答えた。
『バーティー・ミーとドン・ハウ(当時の監督とコーチ)の選手を見る目は確かだった。シンプソンとフランクは私よりも優れたCBだったよ。70年代の彼らの活躍を見てもそれは明らかだ。だが、いつだってホームと呼べる場所を去らなくては辛いものだったね。』
アーセナルでの選手時代に感じたかもしれないフラストレーションをテリー・ニールはハル・シティ(1970~74)とトッテナム(1974~76)時代の監督業のモチベーションとすることに成功した。
そして、その後1976年に当時のアーセナルのチェアマン、デニス・ヒル=ウッドはハイバリーに彼を監督として呼び戻すことを決めた。
『おやじさんにノーというのは不可能だったよ』とニールは笑った。
『だが、私がトッテナムで監督を務めていたせいで、ファンは私を信じてくれなかった。彼らは私がトッテナムに染まってしまったと思っていたんだ。そんなはずはないのにね。』
実際に、ニールの最初の選手獲得の一人であるマルコム・マクドナルドはトッテナムとの競争を制して実現したものだし、トッテナムからDFのウィリー・ヤングやGKのパット・ジェニングズを引きぬこともした。
だが、ニールのアーセナルでの監督としての1シーズン目は順調とは言えなかった。当時のスターであったマクドナルドやアラン・ボール、アラン・ハドソンといった選手たち相手に監督としての威厳を保つことが出来ず、選手時代に共にプレイした経験もあったピーター・ストーリーやジョージ・アームストロングとも衝突し、公の場で選手を批判する事態に陥ってしまった。
だが、ニールのアーセナルでの監督キャリアにおいて最もうまくいった決断はコーチのドン・ハウを呼び戻すことだったと言っていいだろう。
『彼は粗削りな選手をより磨き、リアム(・ブレイディ)やグレアム(・リックス)、フランク(・ステイプルトン)のようなホームグロウンのタレントを育て上げてくれた。』とニールは語る。
この後ニールの妻サンドラと少しだけ話す機会があったのだが、彼女によると『テリー・ニールとドン・ハウはまるで夫婦の様だった』そうだ。
『私はいつもドン・ハウの奥さんと話していたわ。一日中仕事で一緒にいるのに、家に帰ってきてからも毎日電話をかけあうなんて、一体全体二人は何を話しているのかしら?ってね。』
その後アーセナルは1978年には7年ぶりに杯決勝に進出すると、1-0でイプスウィッチタウンに敗れたものの、翌年も再び決勝に進出し、マンチェスター・ユナイテッド相手に伝説の『3分間の決勝』の後に勝利を収め(試合残り5分の時点で2-0だったが、そこから3得点を挙げ3-2で勝利)、優勝を果たした。
ここが、テリー・ニールのアーセナルでのキャリアのピークだったと言えるだろう。その翌年もFA杯とカップウィナーズ杯の決勝に進出はしたが、その両方で、それぞれウエストハムとバレンシア相手に敗れてしまった。
その後リアム・ブレイディが1980年にユベントスに去り、1981年にはフランク・ステイプルトンがマンチェスター・ユナイテッドへと去ったのは大きな痛手だった。
『私は何時間も二人と話し合ったよ。だが、経営陣に給与面で妥協するつもりがなかったし、彼らには層の厚さのための投資を行うつもりがなかった。それがあれば、アーセナルはもっとタイトルに挑戦できたかもしれない。当時のアーセナルよりもはるかに大きな金額をマンチェスター・ユナイテッドや欧州のビッグクラブはオファーすることが出来た。私は監督だったが、アーセナルファンと同じフラストレーションを抱えていたよ。未だってそうだね。』とニールは話した。
その後数年間、ニールは何人かのスター選手をアーセナルに獲得しようとしたようだが、ディエゴ・マラドーナ(『当時の政府が国外に彼を手放すことを拒んだんだ』とテリーは語る)やトッテナムのMFグレン・ホドル(『彼はアーセナルに来たがっていたが、スパーズのフロントがOKを出さなかった』)、そしてデンマーク人ストライカーのエルケーア・ラルセン(『わざわざ毎日彼の行きつけの中華料理屋さんまで行って説得したんだがね、彼は気を変えなかった』)といった選手の移籍は実現しなかった。
少しずつファンの不満とプレッシャーが高まる中で、ニールの最後の賭けはセルティックからFWのチャーリー・ニコラスを獲得することだった。
ニールによると『メディアは彼にプレッシャーをかけすぎた。彼は完全にはイングランドのサッカーに適応できなかったな』とのことだった。
リーグカップで三部のウォルソールに敗北を喫したこともあり、ファンからニールの退任を求める声は1983年の冬には高まっていた。スタジアムには『ニールアウト』のチャントが響き、12/16にはニールは解雇された。
当時を振り返ってニールは『その1ラウンド前のトッテナム戦ではスーパーヒーローのような試合が出来た選手たちが、ウォルソール相手には何故パントマイムの馬のようなプレイしか出来なかったのか、未だにわからないよ。』と語った。
その後彼はアーセナルを去ったのと同時に、42歳という若さで監督のキャリアを引退してしまったわけだが、この理由に関してニールは『いくつかオファーはあったが、私にとってアーセナル以上の場所はなかった。だからもうやめてしまうことにしたんだ。』と話し、『監督としては少し話しすぎてしまう所があったかもしれない。ハーバート・チャップマンやジョージ・グレアム、ベンゲル(この時彼はアーセナルで初めてのダブルを達成したばかりだった)というわけにはいかないが、悪く無い監督としてのキャリアだったと思う。私は心の底からアーセナルを愛していた。アーセナルへの愛なら、彼ら3人にも負けない自信があるよ』と続けた。
多くの中年のアーセナルファンにとってはテリー・ニールは"最初の"アーセナルの監督だ。そして、1979年のユナイテッド相手の劇的な勝利の喜びは43年がたった今でも色あせずに残っている。
テリー・ニールに感謝を。
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ディスカッション
コメント一覧
以前ご紹介いただいた30年代からの名手といい歴史に触れさせていただきありがたい
人間の感情や興奮自体は現在とは変わらない訳ですよね
声が好きだったとかそれぞれのかたちの思い出がありそれだけでかけがえない
それだけでも少なくとも暖まれる
もし興味を持ち続けられればとてもついてる
我々はこういったエピソードだけで飯三杯はいける
ニールさんありがとう
ハリーレドナップが言ってましたがマラドンもそうですがアイデアはいつだってあるけどセスクをいったいどうやって連れてこれるかが豪腕なんだと
ベンゲルさんがストイコビッチをベルカンプと組ませるためにアーセナルにリクルートするとき、私が指導したなかでジョージウェアとグレンホドルとストイコビッチは三本の指に入るんだと