メスト・エジルとアーセン・ベンゲルの物語

語ってみた

2013年9月、一人の選手がアーセナルへとやってきた。

その名はメスト・エジル。

2010年のW杯で世界中を震撼させ、そしてその後レアルマドリードの攻撃のタクトをふるったスター選手。クリスティアーノ・ロナウドが最も信頼を置いた男で、利他的なプレイスタイルで常にチームメイトを助けようとする、息をするようにアシストを量産する魔法使い。

2010年代にはロベルト・バッジョ、フアン・リケルメといったいわゆる"ファンタジスタ"達が築いた一時代は既に終わりを告げ、どんなに才能に溢れるプレイメーカーも、運動量と守備の意識が必要条件となっていた。エジルはファンタジスタの煌めきとモダンサッカーに必要な素質を兼ね備えた新時代の旗手となるMFだった。

2013年の時点でウェズレイ・スナイデルから世界最高のトップ下の座を奪い取りつつあり、前年のバロンドール候補にも選出された。

一方当時のアーセナルは辛うじてCL出場権はキープしていたもののイングランド4位が定位置のクラブという立ち位置で、ヨーロッパの最上位のエリートからは既に脱落していた。

この頃まだ時代はプレミア放映権バブル前、アーセナルはエミレーツスタジアム建設のための巨額な借金を抱えており、名将アーセン・ベンゲルは有望な若手を育て、エリートクラブに売却することで糊口をしのぐことを強いられていた。

タイトルを求めてか、それともより金銭面で好条件を求めてか、セスク・ファブレガス、ナスリ、ファン・ペルシーら華やかな攻撃タレントは皆他のクラブへ去った。

アーセナルファンの間ですら、レアル・マドリードやバルセロナといったメガクラブはむしろアーセナルからのステップアップ先であるという認識はあり、出番を得られていない選手ならまだしも、定期的にスタメン出場しているような選手がアーセナルに移籍するなどというのは夢物語に思えた。

しかし、アーセン・ベンゲルの一本の電話がそれを変えたのだ。

時は遡り2010年、W杯でエジルが世界中のスポットライトを浴びた際、当然ベンゲルの目にも彼の姿は留まっていた。

もちろん、ビッグクラブとの競争を制してエジルを獲得できるほどの資金はアーセナルには当時なかったが、それでもアーセナルは彼との契約を勝ち取ろうと動いていたし、ベンゲルの言葉はエジルの心に響いた。

結果的にこの時エジルはレアル・マドリードを新天地として選んだものの、エジルはアーセン・ベンゲルと『もしレアルから去る日が来るようなことがあれば、真っ先にあなたに連絡します』と約束を交わした。

恐らくこの日からベンゲルの心も決まっていたのだろう。

ようやくアーセナルの借金返済の目途が付き、ある程度資金のやり繰りが楽になったのが2013年、クラブは大型補強を狙っており、ビッグネーム獲得の噂が飛び交った。

この時代のアーセナルは、守備こそ不安定だったものの2列目には俊敏なウイングと技術の高いMFを溢れんばかりに揃えていた。

ウォルコット、ポドルスキ、チェンバレンといったアタッカーを支えるウィルシャー、ラムジー、ロシツキー、カソルラといったMFたち、その後ろには現在監督のアルテタもいた。将来有望なニャブリが出場機会を得られないほどの選手層だった。

ファンの間では、アーセナルをワンランク上に押し上げ、タイトル争いに参戦させるにはジルーよりも得点力が高いファン・ペルシーの後継、あるいはヴィエラのような万能な守備的MFが必要というのが大多数の意見だった。

あるいは、むしろワールドクラスのCBこそが必要なのだ、という見方もあったが、技術の高い攻撃的MFがさらに必要だと考えていた者は誰も居なかっただろう。

そう、アーセン・ベンゲルを除いては。

恐らく、ストライカーやボランチ、CB獲得の方がより賢明な判断だったはずだ。だが、誰がベンゲルを責められる?

彼はスタジアム移転からずっと、監督としての絶頂期に再三再四訪れたメガクラブ監督就任のチャンス、数多のオファーを断り、その才能の全てを、ビッグクラブをタイトルに導くことではなく、アーセナルをCL圏内に留めることに使い果たしてきた。

そしてそれがついに実を結び、クラブの経営が再び軌道に乗った際、思い出したのはエジルとの一本の電話、少しナイーブなところもある天才肌のゲルゼンキルヒェン出身の若者との約束だったのだろう。

堅実な安全策?守備的な補強?

そのような言葉はアーセン・ベンゲルの辞書にはなかった。ようやく資金に余裕が出来たアーセナルで、彼は自身が思い描く理想のMF、エジル獲得という一世一代の大博打に打って出たのだ。

この賭けが成功だったと見るか、失敗に終わったと見るかは意見の分かれる所だろう。恐らくピッチ上の結果だけを見れば失敗と見るべきなのかもしれない。

だが、直近の1,2年を理由にエジルがアーセナルで残した魔法のような時間を取るに足らないものだったと切って捨てるべきではない。

当時からアーセナルファンであった方であれば、エジル獲得の報が電撃のように走ったあの日、エミレーツスタジアムを取り巻いた興奮を未だに覚えているだろう。

サンチェス、オーバメヤン、パーティ。あれから何人かのスターがアーセナルにやってきたが、未だに選手獲得であの時以上の盛り上がりを見せた日はない。

その後、エジル獲得について聞かれた際にアーセン・ベンゲルが見せた、自信に満ちた"Cheeky"なスマイル。そして、アーセナルデビューを果たしてすぐに記録したエジルの初アシスト。

本当にトップ下が必要なのか?という問いなど一瞬にして吹き飛ばしてしまうほどのインパクトがあった。

そして、エジルはアーセン・ベンゲルだけではなく、世界中のアーセナルファンのロマンを乗せていた。

デニス・ベルカンプ以来のスーパースター、移籍金のクラブレコードを大幅に更新した獲得が、明らかな補強ポイントであった守備陣ではなく当代随一のプレイメイカー、メスト・エジルだったことに対して『痛快!これでこそアーセナル!』と快哉を叫んだのは僕だけではないはずだ。

世界一フィジカルなイングランド、プレミアリーグというファンタジスタが活躍するには世界で最も不向きな舞台で、一見不条理にすら見えるほどの、アーセン・ベンゲルの自らの信念に寄せた全幅の信頼。

カソルラ、ロシツキー、ウィルシャーといった体格に恵まれたとはいえないが、魔法のようなテクニックを備えた選手たちが一回りも二回りも大きな選手たちを美しいパスサッカーで蹂躙していくのだ。

サイドからは快足ウォルコットが走り込み、後ろからはサイドバック達とカウンターを食らった場合のリスク管理など1ミリも頭にない様子のラムジーがボックス内に飛び込んでくる。

そんな彼らを率いるべくメスト・エジルがアーセナルに加わった。これで興奮せずにいられるだろうか。

そして彼はその期待を裏切らず、アーセナルで数々の夢のようなプレイを見せてくれた。

華麗なフェイントからの突破、TV画面でも見つけられないコースに正確に届けるスルーパス、おしゃれなヒールフリック。ルドゴレツ戦のゴール、そしてトレードマークとなった超絶技巧の地面に叩きつけるシュート。

ゴール前で優しく横の選手に渡すだけのまさにエジルの真骨頂、といったアシストたち。

これらは見掛け倒しのプレイだったわけではないし、実際にエジルのプレイはアーセナルをワンランク上のチームに引き上げた。

エジルを筆頭に、創造力溢れる選手たちが輝いたアーセナルの挑戦は、必ずしも見込みの薄い賭けだったわけではないのだ。

エジル加入初年度の13/14シーズン、19試合終了時点でアーセナルは首位に立っており、最終的にリーグ優勝を果たしたマンチェスターシティにも勝ち点7の差しかなかった。

この年得点を量産し絶好調だったラムジーの離脱がなければまた変わった結末になっていたかもしれない。

同じように、エジルが最も輝き、19アシストを記録した2015/16シーズンもミラクルレスターにあと一歩のところまで迫っていた。こちらもカソルラの怪我がなければ、優勝の可能性は大いにあったはずだ。

あるいはほかのシーズンも、ロシツキー、ウィルシャーらがもう少しプレイできれば。ジルーがもう少し決めてくれていれば。

紙一重のところでアーセン・ベンゲルが自らが信じ抜いたやり方でリーグを制覇出来た可能性もあったはずだ。

もちろん、今更そのようなことを言っても仕方のない事ではあるのだけれど。

今にして思えば、アーセン・ベンゲルがアーセナルの監督を退いた時点で、エジルのアーセナルでのキャリアの命運は決まっていたのかもしれない。

あれほど何度もエミレーツに木霊したエジルのチャントの一節に"He’s Arsene Wenger’s man"という一節があるのも象徴的だ。

彼の最大の理解者であり、彼らの間に一種の特別な絆が存在しているのは傍から見ても明らかだった。

ベンゲル監督退任の発表があったその日、多くの選手たちがボスへの感謝を表明する中、エジルは沈黙していた。SNS活用の達人ともいえる彼にしては非常にレアなことだ。だがそれだけ衝撃を受け、言葉に詰まっていたということなのだろう。

ベンゲルが去ってほどなくして、エジルのクリエイティブなピッチ上の理解者たちもその全員がアーセナルを去っていった。

ロシツキーとアルテタはすでに引退していた。低い位置でボールを受けて前線のエジルへと繋ぐのが世界一上手かったカソルラは怪我で満足に稼働できずクラブを去ったし、ウィルシャー、ラムジーも後に続いた。

そんな中、エジルはピッチ上にもベンチにも理解者を失い、少しずつ輝けなくなっていってしまった。

結局のところ、エジルは北ロンドンでプレイした史上最高のプレイヤーの一人、というほどの評価は確立できなかった。近年のメンバー外、ピッチ外でのいざこざからアーセナルのレジェンドですらない、という意見もあるだろう。

だがそれでも、僕はメスト・エジル以上にアーセナルファンに夢を見させてくれた選手を知らない。

エジルは全身と魂でサッカーを感じるアーティストなんだよ。彼はいつも勇気づけてあげなくてはならないし、監督との絆、私が信頼しているということを示してやることが必要なんだ。

煽って焚きつけるようなやり方ではだめなんだ。ほかのアーティストたちと同じようにね。彼は自身の創造性がサポートされていると感じていなくては、その本当の良さは引き出せない。

アーセン・ベンゲルの自伝より

ありがとう、そしてさよなら僕らのファンタジスタ。

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Posted by gern3137