今を楽しもう
1971年4月、チームがリーグ優勝とFA杯優勝という歴史に残る二冠達成まであと一歩に迫っていた際に、1970年代の基準に照らしても、非常に伝統的な価値観に強く影響された考え方を持っていた監督のバーティー・ミーは選手たちに「この数週間だけでいい、家族よりもチームを優先してほしい。」と語ったとされている。彼はシーズン終盤の数週間でチームが成し遂げ得ることの重大さを理解していた。
今週練習でチームが再集合した際に、ミケル・アルテタがどのようなスピーチで選手を鼓舞することを選ぶのかは分からない。しかし、今季の残り数週間はこの1971年の数週間と同じく重要であり、チャーチル風の演説の一つや二つ行うのにぴったりの時期であることは間違いない。
アーセナルは三冠を狙う上でこの上ないポジションに立っている、それでも統計的には三つの優勝杯すべてを手にする確率は高くはない。
これは、向こう数週間のどこかで何らかの痛みが訪れる可能性が高い、ということだ。
そしてその失望がどのような形をとろうとも、監督はあらゆる方面から非難を浴びるだろう。仮に三つのうち二つのタイトルを獲得したとしても、数年後にはトレブルを逃したことを悔やむことになるだろう。
2003-04シーズンの無敗優勝のシーズン、ここにチャンピオンズリーグ優勝を加えられなかったことを今も振り返るのと同じように。
それがサッカー、そしてファンの感じ方というものだ。
数週間前、カラバオ杯決勝前は、代表ウィーク直前に敗れれば最悪の筋書きだと感じられた。だが実際は逆だったかもしれない。選手たちにとっては代表チームという異なる環境に身を置くことや、負傷や疲労を癒す時間を持てたことはむしろ良かった。
アルテタとスタッフにとっては、課題を洗い出すためにカラバオ杯決勝を何度も見返す時間になったはずだ。私自身がが距離を置いていただけかもしれないが、代表ウィーク中はコンテンツの流れも少し落ち着いたように感じた。多くの記者や評論家が休暇を取っていたか、あまり投稿などがみられなかったからだ。
過密日程もまたファンに影響を与えているように思う。今シーズンが特にアーセナルファンにとって消耗戦のように感じられる理由はいくつもある。以前は代表ウィークは嫌なものだったが、今では試合が延々と続く中で、むしろファンはそれを歓迎し始めているように見える。
アーセナルファンを挑発することを目的とした外部のコンテンツが存在する状況では特に、サッカークラブを応援するのは疲れるものだ。今や多くのSNS戦略そのものが、アーセナルファンを煽って怒らせることを前提に作られている。
無視すればいいと言うのは簡単だが、それを実行するにも労力が必要で、しかもあまり楽しいものではない。
もし毎日通勤中に、すれ違う人の半分があなたを指差して「この馬鹿を見ろ!」と何度も何度も叫んだとしたら、非常に忍耐強い人でも少なくとも疲労感を覚えるはずだ。
現実世界では、アーセナルはFA杯とチャンピオンズリーグの準々決勝に進み、プレミアリーグでも首位に立っている。これは、これ以上を望むのは難しいほど良い状況だ。
マンチェスター・シティとの勝ち点差がもう少しあれば、あるいは既にトロフィーが一つ手元にあれば、なおよかったかもしれない。
確かにそれを嘆くのは当然であり、実際に今季多くのファンがこれを嘆いてきたが、実際の所それは、何台か所有しているうちのフェラーリの一台に細かな傷がついてしまった、と嘆くようなものではある。
ただし、もしアーセナルが今季無冠に終わり5月の優勝パレードの予定が一件も入らなければ、『4月の時点で非常に良い位置に居たで賞』などは存在しない。
その一方で、仮にアーセナルがここからアーセナルが三冠を達成したとしても、サッカー界のコンテンツの70%はコーナーキックへの文句であふれそうな雰囲気もある。
シーズン開始当初から、語られてきたのはアーセナルが何を勝ちとれるかではなく、何を失うかだった。それを受け入れる必要があるし、その理由の多くも理解できる。昨夏の移籍市場でのクラブの動きは、「そろそろ優勝杯を勝ち取らねばならない」という暗黙の了解を示していたからだ。
とはいえそれでも、まだアーセナルは財政規模を考えれば期待以上の成果を出してこの位置にいるとも言える。だが、チームと監督の質が高いからこそ期待値も高くなる。「自分たちは素晴らしいチームだ」と主張しながら、「素晴らしいチームというにはトロフィーが足りないのではないか」という指摘に対して強く不満を言うことはできないだろう。
正直に言えば、これからの8週間の多くは苦しいものになるだろう。それでも私は、いつも通りそれを楽しもうとするつもりだ。なぜならこれは、特に懸かったものが何もない試合、あるいは10年ほど前に批判されていた「中途半端な成果(CL出場権)」を目指す状況の代わりにアーセナルに与えられたものだからだ。
どちらがいいかは明白だ。
これから痛みが訪れる可能性が高いことは分かっているし、それを楽しみにしているわけではない。
しかし同時に、信じられないほどの歓喜が訪れる可能性もある。
こうした瞬間への期待こそが、人々がこのクレイジーで愛らしいサッカーというスポーツに人生を費やす理由だ。
『ショーシャンクの空に』のアンディ・デュフレーンのように、我々は汚泥の下水を這い進む必要がある。しかしその先には、バラ園が待ち受けているかもしれない。そして私は、それをできる限り楽しむつもりだ。
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