【再掲】アーセン・ベンゲルのルーツを訪ねて

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このアーセナル・コラムの前に書いていたブログの記事を眺めていたら、今読んでもそれなりに興味深く思えるものもありそうだったので、今後時々そちらから記事を再掲していこうと思います。


ガイ・ベンゲルは71歳で42年家族とアルザス地方で続けた車の部品を扱うビジネスから引退したばかりだ。彼の弟、アーセン・ベンゲルは村を離れて久しいが、それでも兄弟の絆は時間が経っても全く変わっていないことがうかがえる。2人とも負けず嫌いであるのもそのままだ。

ガイは、私をダットレンハイムのベンゲル家に招き入れながら、『アーセンのことかい?あいつの知ってることは全て俺が教えたのさ!』と笑いながら話してくれた。

どちらの方がサッカーは上手かったですか?と聞くと彼は、『アーセンに私のテクニックのことを聞いてみるといい。これ以上は何も言わないでおこう。』と答えた。

どうやら兄弟の間で主導権を握るのは兄、というのは子供時代から変わっていないようだが、それでも彼の言葉の節々に、アーセンに抱く愛情と誇りが垣間見えた。

彼は、道の先を指さし、かつて一家で経営していたパブ、ラ・クロワ・ドールの方角を教えてくれた。ここで、アーセンにとってすべてが始まったのだという。

『あそこの裏庭でアーセンとよく遊んだよ、二人だけでね。始めたのは彼が5,6歳のころだと思う。仲は良かったが、サッカーをするときだけは話は別だった。よくストリートサッカーもしていたよ。アーセンもストリートでサッカーを学び、これは彼の哲学にも影響を与えたと思う。当時はパブの裏の道は手押し車が10台くらい通るだけだったが、今は車が一日7000台くらいは通るね。』

当時のラ・クロワ・ドール

身長は180cmを少し超えるくらいだろうか、有名人の弟よりは少し低いかもしれないが、ガイ・ベンゲルは似たように存在感のある人物だった。顔も少し丸みを帯びているものの、似通っているさまは明確に見て取れる。

そして、スポーツもたしなむようで、アディダスのジャージにスリッパといういで立ちだった。とはいえ最近は少しぽっちゃりとしてきたようで、アーセンに痩せるよう言われているのだと明かしてくれた。

アーセンと同じようにガイも幾つもの言語を話すが、彼らは昔ながらのアルザスの方言でお互いと会話するのだそうだ。

『その時は大体他の誰も私たちの話していることを理解できないね!二人ともスポーツやアウトドアが好きで、私はバスケットボール国内リーグ選手だったが、村では45歳までサッカーもやっていた。16歳の時は1.8mくらいはジャンプが出来たよ今でも毎朝サイクリングをするし、アーセンが帰ってきた時はいつだって一緒に森にジョギングにもいくんだ。』

アーセンはアーセナルでの仕事に熱心過ぎるおかげで、毎回少しの時間しか過ごせないようだが、彼は前回は5月に、隣村のダッピグハイムに彼の名を冠したサッカーコートがオープンした記念にやってきたそうだ。

彼は、家族の集まりに少しだけではあるが時折顔を出すという。アルザスとドロメ谷ではベンゲル家は非常に人数が多く、そのような集まりには300人も客が来ることがある。そんな時は名札を身に着けてパーティに参加するのだそうだ。

そして、ガイはアーセナルの試合のたびにアーセンとよく話をし、北ロンドンも比較的頻繁に訪れるのだと明かした。

『人々は、アーセンとアレックス・ファーガソンがお互いを嫌っていると思っていたようだが、あれは全くの嘘だよ、二人と食事の席に同席したことがある。多分、ファーガソンにとって最後のアーセナル戦だったのではないかな。ボルドーワインを二本ほどあけたよ。』

ガイが英国のジャーナリストと話をするのはこの20年間で初めてのことだが、以前も申し出はあったらしい。我々が連絡し、村のことや、兄弟の子供時代に話を聞かせてもらえませんが、と伝えたところ、アーセンにも話すから、4時にもう一度来てくれ、という返答だった。

そして、今はラ・バイタと名を変えた前述のレストランでランチをとり、アーセンの幼少時代ゆかりの場所を一通りまわったのちに再び彼を訪れると、家族写真の準備がされていた。隅から隅までアルザス風の風景だったが、やはりその中に一人非常に国際色を感じさせる人物が一人映っていた。

この地域は第二次世界大戦後に占領下におかれ二人の父親アルフォンセはドイツ軍に強制徴用された10万のうちの一人だったそうだ。拒否は家族の強制収容所送りを意味していたらしい。.

ガイの古くからの友人で、FCダットレンハイム会長の職を彼から継いだジョエル・ミュラー氏が語ってくれたところによると、『彼らの父親は戦争から帰ってきた時、体重が40kgしかなかったんだ。誰も彼が回復すると思った人はいなかったそうだよ。我々の両親たちは何からも逃げることはしなかった。アーセンもまた、アルザスの信念や価値観を受け継いでいるよ。大地の信念さ。正直で、寛容で、心優しい。彼は彼のルーツを知っている。誰かが彼の友達になれば、それは一生の友人を意味するはずさ。』のだという。

戦争が終わった年にガイは生まれ、そのころはまだ近くの納屋にアメリカ人が住んでいたらしい。そして、彼はその何年後かにシャルル・ド・ゴールが彼らのレストランを訪れ握手してくれたことを覚えているそうだ。

昔から今まで、この地域はサッカーが非常に盛んで、自然流れでベンゲル家もFCダットレンハイムと深くかかわることとなった。クラブが創設された1923年以来、二人の父親はクラブ会長を務め、三人の叔父は選手としてプレイ、そしてクラブの本拠地が家族で経営するレストランだったのだ。.

『私は他のクラブにも目をつけられていたんだけどね、実家がクラブの本拠地ということもあって、父親がなかなか移籍を許してくれなかったのさ』とガイは言う。母親のルイーズがパブを切り盛りし、父のアルフォンセがストラスブールで車の部品ビジネスを営んでいたそうだ。この店は、その後ガイが引き継ぎ、今も存続している。

そして、当時は家族経営だったパブも、今では名前こそ変わったものの、建物自体は当時のままで、このバーカウンターと石の壁、タイルの床がアルコールと煙に包まれて、サッカーの会話が交わされる場面は容易に想像できる。

現在のラ・バイタ

アーセンが13歳にの時に家族は隣へ引っ越したものの、それまでは常にサッカーの話題が絶えなかったパブで生まれ育ったようなもので、これが彼らの人生に大きな影響を与えた。

ガイは、『いつも会話を聞いていたよ。クラブハウスやシャワー室なんてなかったからね、選手たちは庭の水道で服を洗ったり、レストランで着替えたりしていた。そのあとは水が汚れるからね、雪でどろどろの日なんかは私は川まで洗いに行ったことがあるのを覚えているよ』と語る。

また友人のミュラーもパブでの様子を覚えているそうだ。

『アーセンはいつも話を聞いていたね。人の心理や生き方に興味があるみたいだった。彼が25歳くらいのころかな、友達がみんなで休暇にカメルーンへ行ったことがあったんだが、彼は決してバカンスはどうだった?と聞いたりはしなかった。代わりに、カメルーンの人はどういう生活をしているんだい?と聞いたんだ。そちらの方に彼は興味を持っていたんだろうね。』

そして、彼ら兄弟はサッカー以外のバスケットボールや水泳といったスポーツもともに楽しんだ。学校には村で唯一のテレビがあり、毎週土曜の夜6時からアーセンはブンデスリーガのハイライト番組を欠かさず見ていたのだという。

ガイによると、彼らの両親は一日に12-15時間ほど働いていたため、その間アーセンは乗馬をしたり、向かいの農園で働いたりしていたそうだ。これがアーセン・ベンゲルがよく好んで自分は農民のようなものだと口にする所以だろう。また、成績も優秀で、16歳の時には数学と哲学でクラスでトップだった。

だが、ガイはこの頭脳ががサッカー監督、という職業に結びつくと考えていたのだろうか?

答えは『ノー』だ。

『彼がアーセナルで成し遂げたことには驚かされる。20年というのはちょっと長すぎるね。そして、その後何をするのかもわからない。』

ガイ・ベンゲルは今でもアーセナルの試合を毎試合欠かさず見ているそうだ、直接スタジアムを訪れることもある。そして、彼が建築の手助けをしたFCダットレンハイムのクラブハウスでもアーセナルの試合は毎試合放送している。

『観ているとちょっと緊張するね。』とガイは語っていたが、今のアーセナルでお気に入りの選手は?と私が質問した瞬間、彼の眼は輝きだした。

『メスト・エジルだね。彼は全く持ってスーパーだよ!すべてが見えているみたいだ。』

また、ガイはこの20年間のアーセナルの素晴らしい瞬間のほとんどに立ち会っているが、その中でもお気に入りは?と聞くと『1998年の最初のダブルかな。』という答えが返ってきた。

『家族みんなでバスを貸切って向かったんだが、皆酔っぱらっていたね。バスをひっくり返すところだったよ。ハイバリーの市役所に向かって、それから朝食を食べた、素晴らしかったよ。』

『一番がっかりしたのは2006年のCL決勝のバルセロナ戦だね。またバスを貸し切って家族みんなで行ったんだが、レーマンが退場してアンリは二つもチャンスを外してしまった。ここらあたりの人間は皆アーセンのことを本当に誇りに思っている。だが、少しだけ悲しいね。チャンピオンズリーグ優勝を果たせれば、本当に最高だった。』

また、ここでミュラーが、地元からベンゲルを訪ねにロンドンへ向かう人がいる時にはナック・アルザスという地元名産のソーセージを持って行くといい、と教えてあげるのだという。アーセンの大好物なのだそうだ。

我々がインタビューを終えて去ろうとしていると、ガイが彼の弟が獲得した選手の事典と、20年記念に出版された、新しいベンゲル・レボリューションの本を誇らしげに見せてくれた。

我々のアルザスでの旅路は、先ほど話に出たソーセージが売っている、隣村のダッピグハイムの肉屋さんを訪ねて終わりとなった。店のオーナー、バレンタインはもちろんベンゲル兄弟のことを知っており、我々にソーセージを山ほどソーセージを包んでくれ、何度言ってもお金を受け取ってはくれなかった。

水曜日のバーゼル戦ののちに、私はこれらのソーセージをきちんとアーセンに渡したと、読者の皆様にお伝えしておこう。アーセン・ベンゲルは大きなスマイルを顔に浮かべ、感謝していた。

このようなサッカー界のアイコンともいうべき人物があのような静謐な村で生まれ育ったというのは少し不思議に感じられる。

アーセンは言う。『自分自身の影響力を計るのは難しいよ。私は歴史が好きだが、私自身の歴史はあまり好きではない。前を見ていることの方が好きだね、年をとればとるほど、それが大事になる。私に関しての評価を下すのは他人に任せるよ。』

だが、たった一人だけ、アーセンには自身の評価を改めてもらいたい人物がいるようだ。

私がガイが彼の方がサッカーが上手いといっていましたよ、と伝えると、大きな笑みを浮かべ、コミカルに眉をひそめ、『それはどうかな?』といった。

恐らく、次にアーセンが故郷を訪れる際には、またベンゲル兄弟は裏庭でどちらがよりサッカーが上手いか結論を出そうとするのだろう。

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Posted by gern3137