ヘクター・ベジェリンの社会的/政治的側面に関して 前編
『あなたが誰かに関して抱いている感情を変えるのは難しいことだが、それでもフェアでなくてはならないし、選手には多くを要求し、選手と監督というのは違った立場なのだということを理解してもらわなくてはならない。もちろんだからといって、その人物に抱く気持ちが変わるというわけではないよ。』
これは、ベンフィカ戦前の会見で、アルテタがベジェリンとチームメイトという関係性から監督に代わることに関して聞かれ、答えたものだ。
もしかするとこれは、より一般的にアーセナルファンがベジェリンに対して抱く感情に関しても言えることかもしれない。
最近ヘクターは我々がサッカー選手と聞いて思い浮かべる典型的なイメージとは全く異なる活動を展開しており、堂々と地球温暖化やビーガン、ホモフォビアなどに関してコメントしている。
またこれまでに、彼のファッションへの興味は賛同者と同じくらいの批判者を生み出してきた。
政治的な発言を行うことで、サッカー界の外側でもベジェリンは意見が割れる存在となった。単に、彼の意見はいろいろな見方が出来るものだからだ。
恐らくベジェリンの評判はイギリス内の政治に関する意見に応じてキレイに分かれるだろう。2019年12月の選挙日には彼はファ〇クボリス(英首相)というタグを用いてツイートし、自らのスタンスを隠そうとはしなかった。
シンプルに言えば、ベジェリンという人物に関してニュートラルな意見でいるのは難しい、ということだ。もちろん、それが何か悪いことだというわけではない。
率直に言って、私自身がこのベジェリンのモダンなスポーツマンらしからぬオープンな姿勢を素晴らしいと感じた多くの人のうちの一人だ。
カーディフ・シティの監督であるニール・ウォーノックがイギリスのEU離脱を高々と主張した際には、もちろん私は同じような温かい気持ちは抱かなかった(彼は非常に面白い人物で、良いサッカーの監督だとは思うが)。
当然ウォーノックには自分の意見を表明する権利があるし、それに対して私が反対意見を持っていることも別に問題はない。反対は別に非難ではないのだ。
同じように、人々がヘクター・ベジェリンと異なる意見を持つのも何か問題があるわけではない。
だが、私は"ベジェリンはファッションにしか興味がなく、サッカーから気をそらされている"などといった狂気の意見に対しては異議を唱えたい。
これは、現代の人々が抱くスポーツマンや男らしさという物に対して抱くステレオタイプを象徴していると思う。
サッカー選手には自由な時間が多くある。現代サッカーはフィジカル面への負担が非常に大きいため、どうしても休息の時間が必要になるからだ。
実際に、多くの選手がスポーツカー、テレビゲームや競馬などへの興味を示している。だが、彼らをフットボールに集中していない、といって責める声は全く聞こえない(不調はテレビゲームのやりすぎだと正直に告白したデイビッド・ジェームズを除けば、ということだが)。
洋服への興味がプレイステーション5よりもサッカーをプレイする上での障害になるという根拠は全く見当たらない。
そもそも気晴らしというのは素晴らしいもので、だからこそ我々は皆サッカーを観戦するのだ。
だが、我々はベジェリンのパフォーマンスを測る際に、これらの要素にどうしても影響を受けがちだ。私を含め、ヘクター・ベジェリンを非常に好ましい人物だと思っているため、ピッチ上でも輝いてほしいと考えるタイプの人もいるし、逆に、無意識のうちにベジェリンの活躍を望まないような人もいる。
エミレーツスタジアムでは電波が悪いか、あるいは特にわざわざタイムラインをチェックしたいとも思わないので試合中はオンライン上のコメントを見る機会などはなかったのだが、最近は実際に現地に観戦に行くのが難しい状況のため、私も普段よりもSNSに目を通す機会が増えている。
そして、そこではベジェリンのパフォーマンスがかなりネガティブな評価を受けているように見受けられる。
もしかすると、私が彼をどう見ているかが影響してそれらが目に付くのかもしれないが、私の個人的な今季のベジェリンのパフォーマンスの評価は、良い時も悪い時も両方があり、一概には言えない。
もちろん、ベジェリンは我々が彼が19歳の時に思い描いた選手になることはできなかった。もし当時私に質問していたら、彼は25歳になるころにはダニ・アウヴェスの後継者としてバルセロナで活躍していると思う、と答えていたはずだ。
(後半に続きます)
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