アーセナル駅誕生の経緯

歴史Tim Stillman,海外記事

ロンドン地下鉄のピカデリー線にあり、今はアーセナル駅の名で知られる駅は、1906年12月15日にオープンした。当時は、"ガラスピー・ロード"と言う名前で、今でもその名前が刻まれたタイルは駅のホームに残っている。

1906年にはこの辺りはまだ住宅街になり始めたばかりで、ようやく都市化が始まったころだった。今のロンドンでは、地下鉄の出入り口のすぐ近くにバス停があるのが通例となっているが、アーセナル駅の400m以内にはバス亭が一つもない。

この駅が出来た当時は、単にバス停が必要なほどの人が住んでいなかった、というのが理由だが、今は全く逆の理由でバス停が作られていない。

試合の日には試合観戦に訪れる人が多すぎて、混雑してしまうからだ。

また、アーセナル駅は世界で最も最初のブランディングの成功例といえる。トッテナムファンはWHLに行くのにセブンシスターズ駅を利用し、ウエストハムはなぜかイーストハム駅(今はストラトフォード)が最寄で、チェルシーはフラム・ブロードウェイだが、そんな中、アーセナルファンはクラブの名を冠した地下鉄の駅を毎週利用できるのだ。

駅の改名をプッシュしたのは、ハーバート・チャップマン(訳注: 1935-34 アーセナル監督)だった。

彼は、『ガラスピー・ロードなんて地名聞いたことないぞ?人は皆この辺りのことをアーセナルって呼んでいるよ』と主張したのだという。

ハーバート・チャップマンは偉大なサッカーチームを作り上げたが、同時に、我々が知る今のアーセナルのブランドを作り上げた人物でもある。

彼のマーケティングに関する先見の明は時代の先を行っていた。カウントダウン時計(審判を守るためにすぐにFAによって禁止された)を導入したり、ヨーロッパ大会の開催、そして、スタジアムのアップグレードにお金を費やすことを厭わない姿勢などだ。

それまでの経緯を振り返ると、アーセナルは1913年にウリッチからイズリントンに移転した。部分的には、当時の会長のヘンリー・ノリスが南ロンドンの限界を感じていたからだ。

今もまだそうだが、ウリッチは、近所の人以外にとってはアクセスが厳しい場所だったからだ。

そして、ノリスが注目したのが、ロンドン中心部からほど近い、当時セント・ジョン大学が位置していた土地だった。

最寄り駅であるガラスピー・ロード駅はレスタースクエアやホルボーン、キングズクロス(訳注: 東京でいう所の渋谷・新宿のようなエリア)までピカデリー線で数駅だった。

会長のノリスは不動産業にも手を出しており、イズリントンのアクセスの良さがサポーターを増やすにおいては非常に重要になるだろうということがわかっていたのだ。

とはいえ、ハーバート・チャップマンが監督に就任した当時アーセナルはまだ移転してから10年と少し経ったくらいで、地域に根を下ろしつつある途中だった。

また、アーセナルがトロフィーを獲得し始めたのは1930年代のことで、その地域に栄光をもたらしたとはまだ言えない時期だった。リーグで初優勝を飾ったのは1931年で、そこから勢いをつけ始め、チャーリー・ブキャンやデイビッド・ジャック(当時の移籍金史上最高額記録を更新、初めて5桁にのせる)といったスター選手を買い始める。

チャップマンのアイディアの多くは、サポーターの夢を実現させるためのもので、チームの成績が上向いてきたのに伴って、スタジアムの東西に豪華なスタンドを建設することを決めた。

のちに、ジョージ・メイルが『チャップマンはほかの何よりも、ショーマンだったのさ。まず第一優先なのは、彼のチームが素晴らしいショーを提供することだった。』と語っていた通りだ。

そして、彼が手を付けたのはスタジアムだけではなかった。1932年の11月、数年間の政治的な工作を駆使し、チャップマンはなんとロンドン地下鉄局の説得に成功し、地下鉄の駅の名前をガラスピー・ロードからアーセナル(ハイバリー・ヒル)へと変えさせたのだ。

最終的に1960年には後ろのハイバリー・ヒルも消された。

サッカーとは何の関係もない公共交通機関をつかさどる行政機関に、このような要求を認めさせるのはとんでもない業績だといえる。

これにより、ロンドン中の地下鉄地図や地下鉄の券売機(ロンドンでは既に1908年に自動券売機が導入されていた)でアーセナルの名前が宣伝されることになったのだ。

彼がどのようにしてこのような離れ業をやってのけたのか今となっては想像もつかない。

“アーセナル"と言う名前が特に地名ではないことを考えるとなおさらだろう。地下鉄の名前を変えることでクラブはイズリントンの地にアーセナルの旗を立て、本当の意味でホームへと変えたのだ。

これにより、無償で英国の首都全域でアーセナルの名前が宣伝されることになった。とんでもないブランディングだ。

そしてもちろん、アーセナル自体が駅の維持にも協力した。隔週で土曜日にとんでもない人数がアーセナル駅を訪れることになったからだ。

駅の周囲の家屋はいくつかが打ち壊され、プラットホームに続くトンネルの拡張工事が行われた。

今日に至るまで、レンガ色のタイルに覆われたアーセナルは、道へ続く階段もエレベーターもないという点で非常にユニークだ。

駅からは地上へとスロープが続いており、地元のアーセナルファンは地上にたどり着く直前の最後の急な上り坂の前で息を深く吸い込んだ記憶があることだろう。

移転後のエミレーツスタジアムはホロウェイ・ロード駅とドレイトン・パーク駅のほうが若干近いのだが、駅の構造上の問題から、試合の日はキックオフの数時間前にこの2つの駅は閉鎖されるため、今でもアーセナル駅がアーセナルの試合の日には最も利用客が多い駅となっている。

また、アーセナル駅からエミレーツスタジアムに歩く途中でハイバリーの跡地を目にすることもできる。

アーセナル駅は最も顕著なアーセナルのクラブとしてのステータスの象徴であり、最もわかりやすいハーバート・チャップマンの遺産だ。

2020年になってもまだ、最寄りのサッカークラブの名前を冠した唯一の駅だ。今となってもまだ、時折スパーズファンの車掌が地下鉄で『次の駅はガラスピー・ロード、ガラスピー・ロード』とアナウンスするのを聞いたことがある人もいるかもしれない。

人々が毎日利用する何の変哲もない地下鉄の駅が、英国サッカー史上もっとも誇り高くユニークなサッカークラブの業績の一つなのだ。

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Posted by gern3137