ブカヨ・サカという名のヒーロー
随分前のことだが、私が19歳だった頃のことを思い出そうとしてみよう。
私は大学で放送とジャーナリズムを専攻していた(大して真面目に勉強していたわけではなかったが)。酒は飲んでいたし、タバコも吸っていた。レコード屋で何時間も過ごし、お宝を探すのに時間を費やしていた。
私は悪い人間だったというわけではないが、若さなりのナイーブさを抱えており、その後人生の教訓をいくつか学ぶこととなった。
10代の頃には多くを知っていると思っていたが、実際は現実を経験するにつれて、自身の世界観はかなり浅はかだったと思い知らされることになった。
恐らく最良の教訓は、他人からは自分が思っているよりも学ぶことが多いという事だ。これを早いうちに気づけたのは幸運だったし、逆にこのことを知らない人が多いのは残念なことだ。
19歳のブカヨ・サカを見て、この数日間に彼が経験しなくてはならなかったことに思いを馳せる。
彼が才能のある選手なのは明らかで、ハードワークと強い精神力で、ここまで素晴らしいキャリアを歩んでいる。全ては彼の目の前にあり、彼が今後もトップレベルで何年も活躍を続けられ、そして、それをアーセナルのユニフォームで続けてくれることを願おう。
だが、彼が一本のPKを外したというそれだけの理由で、彼のことを人でないかのように扱う人々がいる。人種を理由に侮辱するというのはそういうことではないか。
そして、こういった扱いにどう対処すればよい?
99%の人々は自分を愛していて、責めず、サポートしてくれると知っていたとしても、1%の心無い人々がいると思う気持ちは心をかき乱すものに違いない。
サカが発表した声明の一部で彼は『即座に僕が受けるであろうヘイトの想像がついたし、多くのSNSプラットフォームがこのようなメッセージを止めるために何もしてくれないというのも悲しい現実だ。』と述べた。
これはSNS各社に向けられたメッセージで、彼は正しいことを言っていると思う。我々は一度立ち止まり、これについてよく考えるべきではないか。
当然SNSは人種差別を引き起こしているわけではない。だが、それを誘導している。我々はこのことに慣れすぎているように思える。
なぜブカヨ・サカがこのような侮辱を受けることが当たり前で、避けられないものになってしまっているのだろう。むしろこれは当然のことではなく、我々が参加するメディアは根本的な問題を抱えていると思うべきではないだろうか。
選手がPKを外すことが人種差別的侮辱に繋がっており、そしてこれを驚きだったととらえた人はいなかったはずだ。
我々がこのようなグロテスクな要素を含むものを作り出し、それに参加し続けているというのは残念だ。もちろん、これが私たちのせいだというわけではないが、もしかすると我々の他大多数はこういった事態を防ぐために十分に行動できていないのかもしれない。
つまり何が言いたいかというと、我々は人種差別的ではないというスタンスでいるだけでは重要ではなく、積極的に人種差別に反対していかなくてはならない、ということだ。
ツイッター、フェイスブック、インスタグラム上でも、ということだ。
ブカヨ・サカがこのような過酷な状況に置かれながら、彼が他人のことまで考えているというのは尊敬されるべきことだ。
決勝戦で最後のPKを蹴るブカヨ・サカの双肩に載った重みを想像してみて欲しい。
イングランドが50年以上国際大会を優勝していないことも知っているはずだ。
だが彼はその責任を引き受けた。
そして、それを外したところを想像してみて欲しい。
我々もスポーツで失敗を犯したことは何かしらあるかもしれないが、この規模には遥かに及ばない。
チームメイトを裏切ってしまった、という気持ち(もちろん実際にはそうではないが、そう感じられてしまうだろう)、そしてチャンスをくれた監督を裏切ってしまったという気持ち(もちろん実際にはそうではないが、そう感じられてしまうだろう)、自分に期待を載せていた何百万のイングランドの人々をがっかりさせてしまったということ(確かにそうだが、それはスポーツでは起こりうることだ)。
しかも、そのすべてが起こる最中で、これらに加えて人種差別的な中傷が飛んでくるだろうという想いまでが頭をよぎるわけだ。
そして、これが起こるのはそれらのSNSプラットフォームが規制を十分に行わないからだ。
私が19歳の頃に、このような事態に耐えられたかわからない。今私は49だが、今でもこのようなものに耐えられるかはわからない。
私の過去に経験で、これと比較できるようなものはなにもないからだ。20年間ブログを続けてきて、私のこと、あるいは私が行うことを気にいらない人には出会ってきたが、これはどのように受け止めようとしても、心に来るものだ。単にそれが、自分の好きなサッカークラブやサッカー選手に関しての意見が合わないというだけの理由で寄せられたのだとしても。
ブカヨ・サカは彼の本質的な部分に向けられた中傷と向かい合う事を強いられている。
若い黒人の青年で、PKを外したのが理由で中傷にさらされているわけだが、彼の肌の色のせいでターゲットにされている。
例えば5番手のキッカーがジャック・グリーリッシュで、彼がPKを外していたとしても、中傷はあっただろうが、ここに猿やバナナの絵文字、そしてNから始まる例の言葉の重み、ラッシュフォードとサンチョ、サカに寄せられただけの汚らわしさは乗っていなかっただろう。
ブカヨ・サカは同じ声明の中で『この出来事、そして、今週僕が受けたネガティブな言葉によって僕を壊させたりはしない』と述べた。
なんという強さ。抵抗する力。信じられないほどだ。
19歳のサッカー選手がこのような声明を出さなくてはならないというのは酷い時代で、サッカーで何かが間違っているという事を示しているが、同時に、彼がこのような鉄の意志を持ち、彼を選手として、そして一人の人間として蔑ろにしている愚か者たちに立ち向かって声を上げる勇気を備えているというのは勇気づけられることだ。
私はサカの成し遂げたことに深く感銘を受けている。サンチョとラッシュフォードにも同じことが言え、彼らは人間の素晴らしさを示してくれた。
最後に、サカも言った通り『愛は勝利する』のだ。
このことをもっと多くの人が理解してくれたらと願わずにはいられない。多くの人が気をとられる毎日の出来事、我々が重要だと思い、苛立ったり良かったりする物事。これらのうちの多くは実は大して重要ではないのだ。
本当に重要なのはあなた自身とあなたの家族、そしてあなたの友人たちだ。そして、もし出来るのであれば、その範囲を超えて愛を広げることだ。
ほんの少しだけ、その幅を広げられる人もいるし、あるいははるかに遠く、多くの人にまで愛を届けられるヒーローのような人もいる。ブカヨ・サカはまだ19歳だが、後者のうちの一人であることは間違いない。
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ディスカッション
コメント一覧
いつも楽しく拝見しています。その上で時々感じるのですが、海外記事を翻訳される場合(特に今回のような筆者が、自身に言及するような文章の場合)、初めに引用元を書くべきだと思います。最後におまけのように引用元を記載する形は、いささかオリジナルへのリスペクトが欠けているように感じられるのですが。。。駄文失礼しました。
ベンゲルが早熟であるかは才能の判断材料になると述べましたが
持って生まれた運動能力がプレーに余裕をもたらしているのと同じで
精神的にも余裕を感じます
困難にあるからこそ何が大切なのか
この歳でものごとをとてもよく理解している
率直に感銘を受けました
そんなカレがこんな世界でも謙虚さを持ち続けながら成し遂げていくことを見ていくことになる
それはグーナーの特権だ