【本日発売】『ブラックアーセナル』翻訳後記にかえて
本日、翻訳させて頂いた書籍『ブラックアーセナル』が発売となりました。
本書はアーセナルがいかに英国内で黒人アイデンティティの拠り所となるクラブとなり、その過程で何が起き、北ロンドンに本拠地を置くいちサッカークラブがサッカー界、そしてイギリス社会全体にどのような影響を与えたのかを様々な視点で語った一冊となっています。
せっかくなので、今回は『ブラックアーセナル』の内容を踏まえて、時系列順に、関連する出来事や流れを簡単に解説していきたいと思います。
1940~60年代
ブラックアーセナルの発端となったともいえるのが、イギリスが第二次世界大戦直後の1948年以降にとった、疲弊した自国の労働力を補うために積極に移民を招き入れよう、という方針で、この時イギリスは、ジャマイカやトリニダード・トバゴといったカリブ諸国からの移民を招き入れました。この世代のカリブ系の移民は『ウインドラッシュ世代』と呼ばれ、これは当時彼らを運んだエンパイア・ウインドラッシュ号という旅客船の名前に由来しています。
Embed from Getty Imagesアーセナルのレジェンド、デイヴィッド・ローカッスルの両親はこのウインドラッシュ世代のようです。
何故この時招き入れられたのが他国ではなくカリブ諸国からの移民だったかというと、大英帝国時代の名残で当時これらの地域はまだイギリス領であり、外国人ではなく、英女王直属の臣民である、という扱いだったため、手続き上イギリスに移住してもらうのが容易だった、という背景がありました。
(時系列的にはかなり先になりますが、この際特に公的書類などなく入国した人々も多く、また、特に必要性がないという理由でウインドラッシュ号の入国記録も破棄されてしまっていたため、2010年代にイギリスが移民取り締まりを強化した際に、本来合法的にずっとイギリスで暮らしていたはずのウインドラッシュ世代の人々も排除の対象となってしまう、ウインドラッシュスキャンダルという事態が起きます。)
このウインドラッシュ世代の人々が暮らした地域の一つに北ロンドンがあり、このコミュニティがアーセナルにおける黒人アイデンティティの初期的な存在となりました。
1970年代
サッカー界に関して言えば、特にイングランドに限った話ではないと思いますが、当時はまだサッカーの国際化も進んでおらず、EUも創立されていないため、外国人選手というのはほぼ存在せず、例外的なケースを除けば、イングランドのプロ選手はイギリス人・白人が中心でした。
ただし、ひとつアーセナルに関して特筆すべきは、リアム・ブレイディやデイヴィッド・オレアリーというアイルランドのスター選手を抱えていたという点でしょう。これもユナイテッドキングダムであるイギリスの少々ややこしい点ではありますが、パスポート上は一応は"外国"であるはずのアイルランド(非北アイルランド)人選手ですが、イギリスとアイルランド間にはEU創立よりはるか昔からの合意があり、制度上問題なくイギリスでプレイすることが出来ました。
この頃アーセナルはアイルランド系コミュニティに開かれたクラブとしての立ち位置を獲得しており、当時からある程度非イングランド系のコミュニティがファン層に存在することに慣れていたクラブだったということはできるかもしれません。
また、1971年にはトリニダード・トバゴから9歳でイギリスへと移住したブレンドン・バトソンがアーセナル史上初の黒人選手としてデビューを果たしています。彼はアーセナルでは10試合出場に留まり、目立った活躍は残せませんでしたが、その後ウエストブロムで100試合以上に出場し、素晴らしいキャリアを送りました。
Embed from Getty Images1980年代前半
まだまだサッカー界やイギリス中で苛烈で残虐な黒人差別が公然と行われていた時期ではありましたが、この頃から少しずつイングランドのトップレベルでプレーする黒人選手が増え始めます。
また、特に旧英領のガーナやナイジェリアを中心に、アフリカからイギリスへの移民が増え始め、少しずつもともと存在していたカリブ系コミュニティだけでなく、アフリカ系の黒人イギリス人コミュニティも存在感が生まれ始めます。例えばイウォビやサカがナイジェリア系の家系出身で、エディー・エンケティアはガーナ系の家系出身なので、恐らくですが、世代的には彼らの両親は1970-90年代ごろにイギリスに移住した移民である可能性が高いのではないかと思われます。
1980年代にはポール・デイヴィスやヴィヴ・アンダーソン、マイケル・トーマスといった選手たちがアーセナルでプレイしました。
Embed from Getty Images『ブラックアーセナル』の中でポール・デイヴィスは、この頃のイギリスではまだまだ黒人選手といえば気まぐれで頼りにならないウイングかストライカー、という固定観念が根強く、チェルシーやウエストハム、リーズ、エヴァートンのアウェイ戦では特に人種差別が酷かったと話しています。
同時に、1970-80年代にハイバリースタジアムに通っていた黒人ファンのクリスティさんの証言によると、アーセナルの黒人ファンコミュニティの間でも、アーセナルファンは黒人でも、国際的なバックグラウンドを持っていても堂々と列の先頭を歩けるんだ、人種差別的なチェルシーファンたちにそれを見せてやろう、のような空気があったのだそうです。
ジョージ・グレアム時代
もちろんプレースタイルや単純な成績だけで見ても、グレアムはアーセナルの新たな地平を切り開いた人物なのですが、アーセナルにおける黒人選手の在り方という目線で見ても、彼は新たな時代を築きました。
グレアムは特に何らかの反人種差別の表明やコメントなどを出したり、といったことはありませんでしたが、チームの規律を非常に重要視しました。その過程で当時ネームバリューはあったもののグレアムのやり方についてこないベテラン選手を放出し、若手を多く起用してチームの入れ替えを図ります。
その過程で台頭したのがポール・デイヴィス、マイケル・トーマスにデイヴィッド・ローカッスルを加えた3人で、彼ら黒人選手3人で中盤を構成した布陣をビッグマッチなどでも送り出し、これは1980年代後半当時としては非常に異例なことでした。
アーセナル=黒人のクラブというアイデンティティも少しずつ築かれていきました。
Embed from Getty Images1991年にはイラン・ライトがアーセナルに加わりました。もちろん誰かひとりの力や一時的な運動などで時代が動いた、というわけではないのですが、『ブラックアーセナル』で語られている内容を読む限りでは、イアン・ライトこそが、決定的な影響を与えたといっても過言ではないように感じられます。
ライトを獲得したのはグレアムですが、ライトが会見にスーツを着てこなかったため立腹していたのだとか。
アーセン・ベンゲル時代
苛烈な人種差別と闘いながらスーパースターとなり、アーセナル中、イギリス中の黒人サッカーファンの希望となったのがイアン・ライトでしたが、プレミアリーグやEUの創立、ボスマン判決からある程度時間もたち、時代の流れもあって、アーセナルの黒人コミュニティ内における存在感をさらに一段階引き上げたのがアーセン・ベンゲルでした。
自身が外国人監督であっただけでなく、現代のブラックアーセナルの象徴とも言えるティエリ・アンリを獲得して育て上げ、またフィールドプレイヤーに9人の黒人選手を起用したり、英国籍を持つ選手が一人もいない11人をピッチに送り出したり、というその采配はイギリス中に衝撃を与えました。特に衝撃的だった2002年のリーズ戦の様子や影響についても『ブラックアーセナル』内で語られています。
Embed from Getty Imagesまた、アーセン・ベンゲルはアンリやヴィエラのような黒人系の欧州代表の選手だけでなく、カヌ、トゥーレ、ローレンといったアフリカ出身の黒人選手をプレミアリーグで起用した、という点でも当時の常識を覆しました。もちろん、外国人選手や黒人選手をプレミアリーグで初めて起用したのがアーセン・ベンゲルというわけではないですが、チームの半数以上を彼らが占める、というのが当たり前の状態を初めて作り出したのが彼で、この頃からアーセナルに限らず、プレミアリーグ全体で黒人・外国人選手の起用が徐々にある程度一般的になり始めたようです。
ベンゲル後~現代へ
もちろん現代のイギリスサッカー界において人種差別が撲滅された、のようなことを言うつもりは全くありませんが、時は流れ、黒人選手がピッチに一人もいなければ逆に話題になるような時代になりました。これについても本書内でより詳しく語られていますが、AFTVの動画などを見ればわかる通り、現代にいたるまで、アーセナルは黒人ファンの比率が非常に高く、イギリスで最も先進的で多様性を持つサッカークラブとなっています。
これはアーセナルのユースチームの民族構成にも反映されています。ベンゲルの監督退任後、アフリカから選手を直接獲得するケースは減少したものの、今のチームにもサカ、ヌワネリ、ルイス=スケリーといった北ロンドンのアイデンティティを象徴する選手たちがおり、さらにさかのぼれば、ネルソン、メイトランド=ナイルズ、エンケティア、イウォビと、へイルエンドからトップチームに昇格した多くのロンドン出身の黒人選手たちがチームでは活躍してきました。エベレチ・エゼも再びアーセナルに復帰しています。
Embed from Getty Imagesまとめ
本書『ブラックアーセナル』は選手・ファンコミュニティ・そしてイギリス社会全体の動き等の様々な側面から、いかにして今のアーセナルのアイデンティティが形作られたのかをが、当事者の証言ベースでよくわかる一冊となっていますので、より詳しく知りたい方は是非どうぞ!




ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません