プレミアリーグの判定とロイ・ホジソンの悲しげなコメント
今季我々は審判や判定に関して話すことが多くなっている。それは先週末も同じで、しかもこれはアーセナルファンに限った話ではない。プレミアリーグ全体で言える話だ。
今季プレミアリーグの多くのクラブが酷い判定や一貫しない判定基準に影響を受けており、しかもそのうちのいくつかは、今までに聞いたことがないようなタイプのものでもあった。
特に、パレスがリバプールに1-2で敗れた試合後のロイ・ホジソンのコメントは非常に興味深いものだった。
確かにジョーダン・アイェウへのレッドカードは厳しい判定だったが、それを言えば彼も関わっていた冨安健洋の退場はさらに厳しい判定で、どれくらい同情の余地があると考えるかは人によるだろうが、一方で、サッカーファンが各クラブのファンごとに分断されていることが、審判や判定の改善に対してコンセンサスを形成するにあたって大きな障害となっているのも事実だ。
サッカーファンが各クラブの垣根を越えてコンセンサスを形成しなくては、今後も判定や審判の質は変わることはないだろう(もちろん、今回の試合結果はアーセナルにとっても切実な影響を与えたものであるというのは言うまでもない。パレスは11人でリバプールに敗れていた可能性はあるが、もしかすると違った結果となっていたかもしれない。)。
It’s hard to disagree with a word Roy Hodgson says here about the state of refereeing in this country. pic.twitter.com/hdSzrDWEjB
— HLTCO (@HLTCO) December 9, 2023
週末の試合後、既にベンチ入り禁止処分を受け、かつまだニューカッスル戦での振舞の裁定を待っているミケル・アルテタは、判定に関して明確に批判的な言葉を使うことを避けたが、ロイ・ホジソンは全く躊躇がなかった。
私はサッカー界に長くいるが、今日のような試合があると、引退する日が来ても、悲しくないだろうな、と思わされるよ。
コメンテーターからより詳細について話すよう促され、ホジソンは以下のように続けた。
判定と審判、そして、審判のインセンティブだよ。ハンドの解釈がころころ変わるのにはもう飽き飽きだし、時間稼ぎや選手のふるまいに関するイエローカードもだ。
試合中我々は単に自分の仕事を行おうとしているだけじゃないか。この試合のためにトレーニングをし、実際に試合当日に少し選手たちにアドバイスをしようと立ち上がった途端に、我々は座れ!と怒鳴りつけられることになる。こういったことにはもううんざりだよ。
正直に言って、ホジソンのようなサッカー界の第一線に立ち続け、人生の多くをサッカーに捧げてきた人物が引退してもサッカーを寂しく思うことはないだろう、とコメントするところを見るのは胸が痛むものがある。
もちろんこれは比喩的なコメントではあるだろうが、私は今季アーセナルファンの読者から、人生通してずっとアーセナルファンだったが、もう今のサッカー界の方向性には耐えられない、ほかのことに時間を割いた方がましだ、という嘆きのメールを何通も受け取っている。
そして、ホジソンが言及した監督が何故か第四審に座るようにしかりつけられるのにはもう飽き飽きだ、というコメントは非常に共感できるものだ。
彼らはまるで子供のように扱われており、これは受け入れられないものだし、そもそも全く意味がない。
そもそもこんなことは以前から全く問題ではなかったのに、プレミアリーグ審判団は存在していない問題を解決しようとし、逆に問題を生み出しているのだ。
サッカーファンが今までに長々と『クラブの監督が対戦相手のクラブの監督と話をしてしまうのは大きな問題だ』熱い議論を交わしたことがあっただろうか?
そんなことはない。
それなのになぜか、今や監督がテクニカルエリアで立ち上がることは何かの違反とみなされ、イエローカードが提示されるようになってしまった。これは一体何というナンセンスなのだ?
もちろん、ファンやメディアが審判や判定を話題にするのは今季始まったことではない。これは昔からあったことだが、それでも今季はその度合いのレベルが違う。
もちろん私が今日の記事を書くことで、そのメディアのサイクルに組み込まれてしまっているわけだが、とはいえ、事態はもう見過ごすことは出来ないレベルにある。
『審判は難しい仕事なのだから、全てを受け入れて、彼らに任せるべき』という意見は個人的には納得できない。彼らのパフォーマンスに、サッカー界で働くほとんど全ての人の人生がかかっているのだ。
そのようにサッカーに直接的な影響力を持っている審判団を建設的な議論や評価の対象ではなく、何か一段上の存在であるかのように扱うのは単純に健全だとは言えない。
それはホジソンのコメントにも表れているし、実際に彼らのせいでサッカーを観戦することをやめる者もあらわれているのだ。
むやみやたらと審判にリスペクトを、と促すキャンペーンではなく(もちろん、このコンセプト自体は悪いものではない)、サッカー界が必要としているのは建設的で、通常の方法で判定のレベルを引き上げるためにはどのような施策を行うべきなのか、という議論だ。
もちろんリスペクトを求めるガイドラインはあってよいが、リスペクトとは勝ち取るものなのだ。監督が罰則を恐れて判定に関する正直な意見を口にすることすらできず、彼らがチームに助言を与えようとすれば怒鳴りつけられ、判定の『透明性』を提供すると称さている唯一の場がPGMOLとハワード・ウェブにスポットライトを当てるためだけの、彼らに買収されているTV番組では、プレミアリーグは非常に大きな問題を抱えているといわざるを得ない。
単にこれらの問題を存在しないかのようにファンが黙って受け入れ続けても、事態はより悪化するだけだ。
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ディスカッション
コメント一覧
リスペクトとは勝ち取るもの、この言葉ほど現況を表す言葉も無いだろう。最早レフをニュートラルに見られない程になっている。
毎度、セリフが途切れ途切れ、画質が荒れては本当の良い場面、美しい映像を見られずに映画館を後にする様なものだ。
ゴールが決まったその瞬間、それよりもその「正しさ」を礼拝する事に我々は慣れてしまった。もう見る気が起きないとは正常な人達だ。
サッカーの本質は殴り合わない知的なケンカである。ビデオを通して、競技、観客、視聴者全てが裁判に立ち合っている。証拠が全てを握っている。監視の下、適正なルールブックで行うケンカを、果たしてケンカと呼ぶだろうか。